丸木スマはかって広島県飯室の船宿へとつぎ
そこで4人の子宝に恵まれた。
その子供は位里・宜三(養子に行って小田変わる)・広雄・あやの4人の子供
でした。
私は宜三の長男として、自然環境に恵まれた広島県山縣郡加計町で生まれました。
私の幼年期の思い出として、スマは一年を通じ、初冬〜春は広島丸木の家に春休みから 夏の終わりまで私の加計の家に、初秋〜秋終まで東京の丸木位里の家と季節毎に自分の子供たちの家を廻っていました。75歳に差し掛かるころは、子供たちは立派に成長してきたし、なにも心残りは無いので何時死んでも言いと何時も口癖のように言って いました。 その時、東京の丸木俊おばさんが、絵でも書いたら楽しいよと言って、絵具と筆と用紙を残しておいたのがきっかけとなり、一年が過ぎておばあさんの部屋に入ってみると沢山の絵が描いてありました。「絵を描くことがとても楽しくてしょうがない。」と言って暇さえあれば、何時も絵を書いていました。
初め頃は、「紅葉の葉っぱが上手く描けない。私に一寸庭にある紅葉の葉を持って来てくれんかのう。」と言うので、 直ぐに庭の紅葉の葉を取ってきました。 どうするのかなと思っていると葉に絵具を塗りつけて、ぺたっと画仙紙に押さえつけてはなすと、こうすると上手く出来るのうと言ってご満悦のようでした。なるほど上手く描けないのでこんな風にしているのだなと思いました。スマは一日に10数枚も描いていました。3.4年後はとても達筆になりすらすらと描いていました。 「この猫おもしろかろうがのう。」と言いながら楽しみながら描いていました。
私が小学生の4年生頃から毎年、広島の画家末川凡夫人と私と3人で温井(片道4里ある)と言うところまで行き途中で絵を描きながら温井まで行きました。途中険しい山並みに綺麗な花が咲いているとスマさんはいとも簡単にその険しい山を登りその花を取ってきました。危ないよと言うとせわないと言って軽々と身のこなしするのを見て80歳に近いおばあさんとは思えなかったです。子供ながら片道4里近い距離を徒歩するのにくたびれたと言うと、若いのにもっと元気をださなゃあと言っていました。 何度か途中の河原に降りて絵を書いていると、温井の佐々木村長さんが駆けつけてこられ是非家に寄ってくれんさいと頼まれ、スマさんは何時もいい返事をしていました。村長さんの家に伺いスマは数枚の描いた絵を見せていて、村長さんがこれとこれは私が好きな絵ですと言われると、あんたの好きな絵を何枚でもいいからあげますと何時もきまいが良かったことを覚えています。
スマおばあさんは誰にも好かれ、楽しんで描いた絵がみんなから宝のように扱って貰えることに自分は本当に幸せものだと何時も言っていました。絵を描きはなえてから、面白うての、未だ未だ死なりゃせんと言い、良くわしゃ、今が花よ、と言っていました。子供ながらスマおばあさんがとても好きで、春休みには加計に来てくれるのを楽しみにしていました。
スマはとてもよく気がつき、頭の回転の速く、チャーミングな方でした。それに若者の気持ちもよく分かる楽しい方でした。お金は掛けないけれど、おしゃれの感覚があり、あつしと言う服のデザインの違うものを幾つか自分で作ってそれを雰囲気に合わせて着ていました。
ある時、私の父がテーブルを4本の足を取り付けていました。出来上がり平らな所へ設置して見るとどうしても安定しません。それを見ていたスマは、あんたは頭が悪いのう、それを3本足にしたらピタットと安定するでいと言っていました。親父かはっと思ったみたいでそうすると確かにピタット安定しました。
80歳すぎても何時もきちんとしてしていて、背筋を何時も伸ばしていて年寄りくさく無く又背中が曲がっていなくて姿勢の正しい方でした。
私の母は父(吉村)が海軍の軍医のあったため呉で育ちました。おふくろの母親は早くして丹毒で無くなり、その時父は西洋医学の限界を感じて漢方薬の研究をして、赤本(分厚い 処方を書いた本)を友人と共に原稿を作ったと聞きました。
母の叔母(お茶の水大学出身) に当たる方で岩国の第一病院に嫁いだ方からスマ宛に手紙がよくきていました。スマは私の母に読んで貰い又返事もスマが口頭で話すのを私の母がスマの代わりに書いていた事を記憶しています。私の母は西洋医学をあまり信用していなくて、何時もスマや子供たちが体調を崩すと赤本を取り出して漢方薬を煎じてくれていました。
76歳には院展に連続入選し、その後院友になりました。当時は社会情勢から思った 事がなかなか言えない状況でした。そんな中で思ったことをずばり爽やかに言うスマの 言動を見てマスコミが取り上げスマもタレント並になりました。当時はラジオが主流でし たが、テレビが誕生して間もない頃にテレビ出演をしていました。
当時は私のうちにはテレビが無く、電気店に行ってみていましたが、テレビ・ラジオで経済 界の方々等もよく対談していました。対談した方がスマさんには参りましたといわれるほど明快な歯切れのよい回答をしていたことを子供ながら覚えています。
私は不思議でたまりませんでした。それはスマは上記のように自分で書いたり、読んだり は苦手な人なのに、あんなに偉い方に堂々と話が出来るのか不思議てたまりませんでし た。ある時、スマに聞いたところびっくりする回答がかえってきました。それはのうどんなに偉い方でも人間には変わりないのだからおじけづく事は必要ないと言いいました。
当時は、本音を言うことに躊躇している時期でもありましたが、スマは自分が正しいと思った事 は、素直に発言していました。原爆が落とされる前に日本では竹やりで相手の国をやっつけるのだと竹やり訓練する時も、現代戦争でこんな旧式なやり方で勝てる訳がないと言っていたそうです。若いものがそういうと捕まったのですが、年寄りがいうので何も言われなかったと言っていました。又昔飯室でいろいろと揉め事が起きた時にスマさんが行くと一挙に解決していたと私の父が幼い時の思い出を語っていました。
スマは身近にある物を、画材にしていて山陰の浜田から新鮮な魚が届くと直ぐにスマ のところへ持っていくとこれは目が輝いてる新鮮じゃのうと言って早速絵筆を取って いました。加計は広島からではなくたまに山陰の浜田から新鮮な魚が届いていました。 平素は塩をした鯖か万作という魚が近くの魚屋の店先にありました。 春咲いた花を取ってきて書いたり、庭に飛んできたカラスやツグミやすずめなど自分の眼に入ったものを描いていました。その描写方法で猫の裏側を描いたり、野菜の地中の根まで書いてるとモグラまで見えてきて限りなく想像の世界感の広がっていく描き方をしていました。常に書きながらこれおもいろかろうがのうと言いながら書いていました。
私が小学生の6年生の時にテレビのキットがとても欲しくて母にせびつていました。 どうしても欲しくて、何日もかけて母に買ってくれないか頼んでいる状況を見て、スマは その様子を見て、母に向けて、息子が、夢を描き、一生懸命になっていてどうしても欲しいと言っているのだから、経済的に許せるのであれば、買ってやりなさいと言ってくれたことが有ります。私の夢がスマのお陰でかなえた事があります。
スマさんと二人で広島の本通りを歩いた時に、通り違った方からあの方がスマさんだと言って皆から振り返えられた事があったときにスマさんと歩いていることに誇りを子供ながら思ったことがあります。スマさんは有名人だと思ったこと。
こんなスマだから、何も悩みもない方だと思っていました。ある時、スマは絵を何時も 楽しく描いていると思っていたら、えらく悩んでいました。それは春・秋の院展に出品する作品で悩んでいる姿を子供ながら感じていました。今思うにスマは回を重ねる事に描写の巧みさを感じるようになっていました。構図も巧みになり、磨きがかかって来 ているそんな中で、次に出品する作品はと思うとかなのプレッシャーがかかるようでした。出品する絵を描くときは楽しくないつらいのうと愚痴を言わないスマさんもこの時だけはその時期に差し掛かると言っていました。
ある時に、是非スマさんにお会いしたいと小林和作さんが言われ、二人が会うことになりました。その時に小林和作さんからあなたの絵はとても鮮やかな色彩を放っている、とてもよい絵具を使用されているのですねと言われたそうです。スマは当時は僕たちもよく使っていたペンテル絵具だったのでただうなずいていたと 言っていました。小林和作さんは私の絵と交換しましょうと言われたそうです。
スマがタレント並になったときに、アメリカでも70歳(女性)すぎて絵描として有名になった方がおられ、スマとそのアメリカのその方と日本で会うことになりました。通訳を通して会話が弾んだと聞いています。スマは前向きな方であれば誰でも楽しく会話の出来る方でした。
加計では、スマは普段は絵を書くこととたまに畑にいくことが日課でした。 じっとしていることが嫌なタイプで何時も何かをして勤勉なおばあさんでした。 絵を描くことがゆういつ楽しみな時間でした。
一日で数十枚も書いていました。 描くための用紙がなくなり、新聞の広告の裏の白い面にも描いていました。
スマは81歳の年の暮れに事故により亡くなりました。当時一週間続けて葬儀の様子 がテレビで放映されて多くの知名人の方から悔やまれました。 テレビ局からもっと回顧録などを取り入れて放映させてくれと言われたそうですが、親族としても、心痛むのでそれ以上はお断りした事を父から聞きました。
今思うにスマには、高度な知識は身に付けていないが、知恵のある方だと思っています。この世で生きていく事の大切なことは知識も必要だけれどもっと大切な ことは知恵だという事をスマは教えてくれました。知識が豊富すぎて、枠を外れた考えが浮かばなくなる事の方が怖いとおもうようになりました。 丸木俊さんは絵を書いているときに自分は大学(女子美大)で絵を勉強していた知識がわざわいしてスマさんのような絵が描けないとよく言っていた事を覚えています。
私は広島に生まれ育ちました。広島に一つでも多くの文化を残したい気持ちで一杯です。 丸木スマの絵画の世界・丸木位里の原爆の図・その他の絵画の世界・大道あやの絵画 の世界と3人の画家(広島出身)が誕生したことは世界的にも珍しいとおもいます。 フランスの郊外にいくと、ビッフェの美術館があり、ゴッホの生家はそのまま残っていて文化 の継承が受け継がれている。まさにそう思うと広島市に3人の美術館が出来て広島の名所 の一つに付け加えたらさらに広島の魅力が増大すると思っています。私はその方法として、 世界に向けてインターネットを利用し、広島市から発信して募金活動をしたらこれらの実現 が可能になるのではと思ってやみません。協力輪を広げようではありませんか。 建物も世界的に名声ある方に御願いできたらよいとおもいます。